Vol.195 「命の選別」発言に思う、その2
東日本大震災後に点滴の在庫が少なくなり、最悪の場合、点滴を減らす患者を選別しなければならないことを覚悟しました。治療を継続したらどれくらい生きられるかを主治医に確認して、末期癌患者と認知症で食事が摂れず経管栄養も受けていない患者を最初に選び、予後が同程度であれば高齢の患者からと決めましたが、幸いなことに命を選別せずに済みました。
大規模災害時には、トリアージと呼ばれる「命の選別」が必要です。その語源は「選別」を意味するフランス語のトリアージュから来ていると言われ、以下の4つ色―黒;死亡もしくは蘇生の見込みなし、赤;重篤で一刻も早い処置を要する、黄;重篤ではないが処置が必要、緑;軽症または処置が不要―に分類します。黒に分類された人でも処置を行えばある程度は生きられる人はいるかもしれず、医者の判断が間違っている可能性もあります。この作業は、医療本来の「すべての患者を救う」精神に反するだけでなく、「見殺し」にすることでもあります。その目的が、限られた医療資源で少しでも多くの人の命を救うためであるから許容されるのです。
医学が進歩し、高齢化率が世界一になり、医療費が増え続ける我が国では、慢性期医療を含めた日常の医療にもこの考え方が必要になりつつあります。効果の乏しい医療行為は保険診療から除外すべきですが、総合感冒薬と呼ばれる風邪薬や湿布薬も、その気配はありません。効果が証明されていない癌検診にも公費で助成されています。検診は自費で行えばよいかというと、医療従事者や高額医療機器が浪費されるという問題があります。高齢の親の生体移植で、子供世代がドナーになってもよいのでしょうか。血液透析をしないと生命維持ができなくなったり、認知症で食事を摂らなくなった高齢者をどこまで延命するのかは、簡単に決められない問題ですが、議論を先送りにしてよいのでしょうか。医療費以上に人間の尊厳に関わる問題も含まれています。
我が国は、高齢者にどこまで医療を提供するかを最も真剣に考えなければならない国のはずです。政治家だけで基準を決めることは危険ですが、議論することを封殺するのはそれと同じ極端な考え方です。自己決定権が解決の鍵という主張もありますが、多くの人は自分の最期について考えたこともなく、考えていても突然意識がなくなれば伝えることはできません。一番の問題は、病気ごとに延命治療を理解して決断することは、容易ではないということです。末期癌は比較的決めやすいかもしれませんが、安楽死問題で話題の筋萎縮性側索硬化症(ALS)などの神経難病は恐ろしく困難だと思います。多くの場合、家族と医療者が相談しているのですが、政治家が国民に甘くない現実を訴えることには意味があると思います。
4月に里帰り出産のために岩手県に帰省した妊婦が破水し、新型コロナ対策のため帰省後間もないという理由で基幹病院である2つの県立病院から救急搬送を断られました。幸い、遠方の私立病院で無事出産でき、感染もしていませんでした。病院の感染対策も問題ですが、何とか受け入れようという医療者の矜持も問われます。問題が発生したら、マスコミから騒がれるだけでなく、司法からも責任を問われる恐怖を多くの医療者が感じていますが、これは国民のゼロリスク信仰が生み出したものです。医療を提供する側にも受ける側にも覚悟が必要です。若者が希望を持てる社会であるためには、高齢者の延命願望はほどほどでなければならないと思います。岩手県出身の歌人石川啄木の「一握の砂」に「こころよく 我にはたらく 仕事あれ それを仕遂げて 死なむと思ふ」という歌があります。こんな気持で仕事ができる社会であればと願います。