Vol.309 この齢になって恋愛小説を読んで泣くなんて
参議院議員になった小説家の百田尚樹氏が、昨年11月の経済産業委員会で、赤沢亮正経済産業大臣の所信の文章に対して「意味が分からない」と質問したところ、赤沢氏は答弁の冒頭で、「私は百田先生の小説はほぼ全部読んでいる。特に至高だと思ったのが、『プリズム』。こんなこと書ける人がいるのか。天才だなと何年も前だが震えた覚えがある。」と答えました。私は、この作品が恋愛小説と知っていたので、優先順位が低く未読でしたが、このニュースを見て購入し、先ごろ新幹線の中で読んでみました。
本作品は、主人公の女性が家庭教師として雇われて訪れた豪邸で、生徒の叔父である解離性同一性障害(いわゆる多重人格)の男性と出会い、彼の中の多くの人格に翻弄されながら、その中の一人と愛し合う長編サスペンスです。タイトルのプリズムは、無色の光がプリズムを通ると複数の色の光に分かれることを人格になぞらえて付けられたようです。一人の中に複数の人間が存在するという設定で、複雑な関係の家族や治療する精神科医や主人公の夫などの登場人物が絡みあって物語は進行します。多重人格は20世紀後半に米国で急激に増加した精神疾患で、その存在自体を疑う専門家もいます。そのような医学の中でも難解な領域に、百田氏が足を踏み入れて理解するためには多くの参考図書を読み込み、専門家にも教えを受けたことでしょう。物語の中で複数の登場人物の会話を通してその疾患を説明し、一般人にも違和感なく受け入れさせる筆力には感心します。さらに、誰もが心に持つ多面性を多重人格に例えて、普通の人も実感できるようにしているのは驚嘆に値します。巻末の解説で精神科医で作家の春日武彦氏も、「説明の上手い人は偏差値の高い人ではなく、人間の心に精通した人である。」と述べています。
大臣所信に対する疑問として百田氏が指摘したのは、「所信的挨拶」という奇妙な日本語、「DX」や「GX」や「フュージョンエネルギー」などの分かりにくい日本語などですが、氏の小説は内容が面白いのはもちろんですが、その文章のわかりやすさと緻密さは特筆すべきものがあります。私が仕事で書くのはカルテくらいですが、日頃から心がけ、職員にも強調しているのは、カルテは読む人を感動させる必要はなく、大事なことは「わかりやすさ」と共に「誤解できない正確さ」、つまり「その文章を読めばただ一通りの解釈しかできない」ということです。とはいえ、自分の書いた文章を読むと「???」と思うことが少なくありません。氏のようにわかりやすい言葉で面白い物語を紡ぐ作家は稀有な存在で、21世紀を代表する作家と言っても過言ではありません。対照的なのは行政の文書で、読み手に読む気をなくさせる曖昧で冗長な文章です。また、学生時代に読んだノーベル賞作家の大江健三郎氏の「われらの狂気を生き延びる道を教えよ」は、一つの文が異常に長く、文節の関係性がわかりにくく私には理解不能でした。
多重人格の患者を担当する精神科医の描写から医者として感じたのは、短気な自分は精神科医にはなれないということでした。一読者としては、陰気なくせに、馴れ馴れしく不愉快で、急に思いやりがあり礼儀正しいと思ったら突然暴力的になる男から、自分は多重人格者だと告白され、当初は演技と疑いながら、様々な出来事を通して多重人格者であることを確信した主人公が、その中の一人と愛し合う過程にはページをめくる手が止まりませんでした。驚愕のドンデン返しはありませんが、治療が成功して一つの人格に統合された男性の口調や仕草の中に、今は消えて二度と会えなくなった愛しい男性の痕跡を見つけるラストシーンは胸に迫るものがあります。新幹線が新庄に着く頃に読み終えた私は泣いていましたが、周りに乗客がいなかったので、「キモい老人」と思われずに済みました。中高年にもお勧めの恋愛小説です。