Vol.181 ゼロリスクというリスク
厚生労働省クラスター対策斑の西浦博教授は、対策を講じないと40万人以上の死者が出ると数理モデルを使って指摘しました。40万人以上というのは100年前のスペイン風邪での死亡者と同等なので、ありえない数字ではありません。新型コロナウイルス感染症対策専門家会議の河岡義裕教授も、これまで少ないからこれからも増えないと考えるのは危険であると述べています。ただ、我が国の死亡者がそこまで増えるには、人口あたりの死亡者数が日本の400倍であるイタリアやスペインのさらに10倍近いレベルにならなければなりません。地方の一臨床医である私には実感できないのですが、このようなことが起こるとすると、「医療崩壊」が起こったときであることは間違いありません。
医療を崩壊させないためには、需要と供給のバランスを維持することです。PCR検査は万能ではなく、感染者が少ない集団に行うことは利点がないと以前に書きましたが、医師が疑っている場合にも迅速に行われない現状は問題です。保健所は多くの電話に対応できず、検査機関は限られた人数と検査機器で青息吐息の状況では、見かけの感染増加を遅らせても、結局は医療の需要を増やしてしまいます。準備期間が十分でなかったのでしょうか。
医療の供給体制にも問題があります。全国の大学病院のうち新型コロナの患者を受け入れているのは1/4以下で、「コロナは一切診ない」と公言し、入口前にテントを張って、来院者全員の体温を測定し、熱があれば近くの感染症指定病院に行くよう促す都内の大学病院や、感染症の専用病床が20以上ありながら、受け入れに極めて消極的な病院もあるそうです。確かに、新型コロナの患者の診療には感染予防面で多大な労力を要するので、他の診療に影響が出るだけでなく、それ以外の患者が減少するので収益はマイナスになります。我々も医療の原点を忘れてはなりませんが、医療の安全や経営を行政側が支援するのも不可欠です。
需要を最も減らすのは、無症状や軽症者を病院から出すことです。山形県内でもその動きがあるようですが、感染者が増えてからでは遅いのです。宿泊施設や自宅へ感染者を出すことは、感染のリスクを増やしますが、医療が崩壊するほうが悲惨な結果になります。ある程度の準備ができたら早急に始めるべきです。
それでも入院患者が多くなると、医療資源が平等に分配できなくなることが予想されます。その際には、選別をせざるを得なくなります。実際に欧米では高齢者に対する集中治療を行わない事例が報告されています。これまでも大災害の現場では、助かる患者を増やすために「トリアージ」と呼ばれる生命の選別が行われてきました。「人の命は地球よりも重い」と言う考え方が支持される戦後の日本ですが、せめて末期癌などで余命が短い人や超高齢者には、酸素吸入以上の延命治療は行わないという程度の指針は国レベルで出すべきです。私も生命を選別したくはないですが、いざとなればその覚悟はあります。自分が感染するリスク、愛する人に感染させるリスク、感染しても入院できないリスク、入院しても集中治療を受けられないリスク、そして不条理に命を失うリスクなど、私達の前にはいろいろなリスクがあります。努力をした上で、リスクを受け入れる覚悟を持つべきではないでしょうか。ゼロリスクのすぐ後ろには巨大なリスクが待ち構えているような気がします。私自身が患者になり、死ぬことも十分にある年齢になり、「60を過ぎたら、死ぬことを考えて生きるのが知性だ。いつまでも生きたいというのは欲望ってぇんだよ。」という落語家の立川談志が残した言葉をこれまで以上に胸に刻んでいます。