Vol.174 「身体拘束は是か非か」という議論ではなくて・・・
NHKテレビのクローズアップ現代で、「一般病院の“身体拘束”それでも必要?徹底討論!」という番組が、10月に放映されました。その1ヶ月前に同番組で紹介された身体拘束をなくす試みに対して、医療関係者から「非現実的な理想論だ」という趣旨の意見が多数寄せられたため、一般病院での身体拘束について、反対者を交えて討論する内容でした。
慢性期の患者を受け入れる100床弱のその病院では、看護体制を整え、リハビリを積極的に行うことで、身体拘束をなくすことができたそうです。素晴らしい試みだと思いますが、気になったのは、その中で紹介された高齢女性です。2ヶ月間にわたる身体拘束を受け、意思の疎通はできず、経鼻胃管を入れられ、筋肉は萎縮し関節も拘縮して寝たきりになってしまった患者が、その病院に転院して薬の減量やリハビリのおかけで、4年後には会話もでき、食事も自分で摂れるまでに回復した姿はまるで別人のようでした。そこまで衰弱したのは、身体拘束よりも病気そのものの影響のほうが強いと考えるのが自然です。その後の回復は、転院先の病院のおかげでしょうが、努力すれば身体拘束はなくせるし、身体拘束がなくなれば回復するという制作者の意図が露骨に感じられました。
医療機関においては身体拘束が容認されるのは、①生命の危険がある、②他に変わる方法がない、③一時的である、の3つがすべて満たされている場合です。身体拘束といえば、身体をベッドに縛りつけられることだけではなく、手指が自由に使えないように「ミトン」と呼ばれる手袋をつけることも、服を脱いだりおむつを外したりできないように「つなぎ服」と呼ばれる介護衣を着用することも、ベッド柵を巡らせて自由に降りられないようにすることも、徘徊できないように部屋に鍵をかけることも含まれます。さらに、夜間に不穏になるのを防ぐために向精神薬を過剰に使用することも身体拘束になります。我が国で向精神薬が過剰に使われていることは間違いないですが、不穏を予防するために使用する量が過剰かどうかの判断は難しいところです。
身体拘束は減らすべきであり、医療側の努力は不十分だと思います。医療や介護に関わる人間は拘束されることを体験して、いかに非人間的な扱いかを実感すべきだとも思います。一方で、足元がおぼつかない重度の認知症患者が、徘徊しても転倒しないようにするには、どれくらいの労力を要するかも考えなければなりません。完璧を期すのであれば、交代勤務で1日10人は必要でしょうが、高齢化社会でそれが可能でしょうか。人工知能などの技術革新で人手は減らせても、コストがかかります。人手もお金もかけずに質の高い看護や介護を求めるのは不可能です。現場の看護師もほとんどの場合、その患者の安全を守りつつ、他の患者の看護を行うためにやむを得ず拘束しているのです。
もう一つの問題は、身体拘束をしなかったときに起こったトラブルへの不安です。転倒して太腿の骨折をして、寝たきりになることも、認知症が悪化することもあります。そういう不幸な出来事を受け入れてくれる家族ばかりではありません。こんなことならベッドに縛り付けておいてくれたらよかったのにと言う家族もいるのです。このような家族への対応や訴訟に発展したときに、医療者のやる気がどれほど失われるかも考えなければなりません。身体拘束は、是か非かの二元論ではなく、医療を提供する側が真摯に努力するのと同時に、どれくらいの労力とコストをかけられるのかを医療を受ける側にも考えてもらわなければなりません。