新庄徳洲会病院

menu

<

掲載日付:2026.08.21

Vol.317 医療分野におけるAIやロボットの影響

 医療分野にも人工知能(AI)やロボットの導入が進み、電子カルテが普及するにつれて、画像診断や病理診断では医者の果たす役割が減少しています。診察前の問診は、方言や患者の理解力の差など難しい面はあるものの、ヒトと同等の質が担保され、患者を不快にすることが少ないという報告もあります。また、医者と患者の会話から病歴をまとめてカルテに記載する技術も実用化されようとしています。最新の知識を持ち続けることが、勉強熱心な医者でなくても可能になり、しかも幅広い分野から抽出することが容易になりました。知識量では人間はAIに立ち向かえなくなりましたが、技術も正確で疲れを知らないロボットは医師不足を補えそうです。

 狭い分野の特殊な専門家よりも、総合診療などの需要の多い部門の医者が増えるほうが、国民の利益になり、医療費の削減も容易になります。「神の手」を持つ外科医はほんの一握りで十分で、普通の手術を普通にできる外科医を養成するほうが、低コストで国民の不幸を最小限にできると思います。「紙の手」のような手の私でも、ケガやヤケドや床ずれの処置やありふれた手術ができる間は医者として働けそうです。一人当たり数千万円の税金を投入して養成した医者が、初期研修を終えると怪しげな美容外科医になることに、国民は納得しないでしょう。医者の仕事がAIやロボットに取って代わられるのは、国民にとっては喜ばしいことです。

 他の職種に目を向けると、AIやロボットに最も取って代わられやすいのは薬剤師ではないでしょうか。医者の処方をチェックするのはAIのほうが正確です。病院の薬剤師には多くの仕事がありますが、6年間の専門教育を終えたばかりの薬剤師が、現在のドラッグストアで働くのは問題です。ドラッグストアはスーパーやコンビニに代わるのではなく、診療所の役割を担うべきではないでしょうか。血圧だけでなく血糖も簡単に測定できるようになった現在、安定した高血圧や糖尿病の管理は、看護師と薬剤師が行うシステムを国が構築すれば、医療の質を落とすことなく医療費を削減することにつながる可能性は大きいはずです。逆にAIに完全に取って代わられないのは、看護や介護部門で、リハビリもそれに近く、検査やレントゲンの技師と医療機器のエンジニアはその中間的な位置でしょう。看護や介護の分野には肉体労働を軽減するロボットの導入は早急に行うべきですが、患者の個別の微妙な要求に応えることはまだまだAIには難しく、患者の期待を上回る対応をすることは不可能でしょう。リハビリの需要は今後も減ることはないので、必要性は看護部門と同じだと思います。技師の仕事は多岐にわたっているので、人間を必要とすることはなくなることはないでしょう。医者を含めてすべての職種に言えることですが、求められることをできる人材は必要とされ続けるでしょう。

 私の病院では「医師事務」という部署があり、事務職員が診断書や診療録のサマリーの一部を代行してくれるようになり、煩雑な業務が軽減して個人的には大変助かっています。診断書などの書類作成が滞らなくなるので、患者サービスにも貢献しています。このような分野にもAIが進出することは間違いなく、余剰人員が出るはずです。我々のような弱小病院ではそのパワーを別の部門に活用できるので大いに期待しています。医師事務の職員は専門教育を受け特別な資格を持っていない人が多いのですが、経験を積むと医療分野への理解は、広い範囲にわたって深くなります。私も初めは診断書を書いてもらっても、結局は自分で書き直さなければならないと思っていましたが、実際にはほとんど手直しすることはなくなりました。このような貴重な戦力は、事務作業だけでなく、診療の補助として活躍する場があるはずです。AIを人間への脅威と考える向きもありますが、人材確保に悩むところでは人間の活躍の場が広がる可能性を感じます。

掲載日付:2026.07.23

Vol.316 医療と介護の再統合

 6月28日付の日本経済新聞は一面トップで、減少傾向が続いていた自宅で最期を迎える在宅死の割合が、2005年から増加に転じて12%から24年には16%と4ポイント増加していると報じています。顕著なのは老人ホームで、同時期に2%から12%に跳ね上がっています。逆に病院は80%から64%に低下しています。ただ、多死社会になり総死亡者が160万人を超えたため、実数は横ばいです。この流れは、衰えの目立つ高齢者を、入院医療から訪問や施設による介護へ移行させた政策に依るところが大きいと考えます。ただ記事にもある通り、在宅死の割合に地域差が大きく、24年の在宅での看取り率は、最高の神奈川が26.8%であるのに対して、最低の高知は4.9%と5倍以上の差があります。全体的に都市部が高く、地方が低い傾向が明確です。

 この事実は、高齢者を自宅で看取る体制を地方では作りにくいことを示しています。地方では患者も医療や介護の従事者も数が少なく、自宅と病院や介護施設の距離が離れているということが大きな要因というのが、地方で20年以上関わってきた私の感想です。都会では自転車で15分の圏内に訪問診療を複数集められますが、地方では1件に車で片道30分以上を要することが珍しくなく、当地のような豪雪地帯ではそれが1時間になることもあります。このような異なる環境で、同じルールを適用して、同じレベルの医療や介護を求めるのは無理です。経営面でも、都会では高齢者の数が多く、医療と介護を棲み分けても経営が成り立ちますが、地方では人口減少が進み、高齢化率は高くとも、高齢者数はすでに減少し(当地も例外ではありません)、かつて造られた民間の介護施設は、経営困難のため減少し始めています。

 2000年に制定された介護保険制度を期に、それまでも増加傾向だった老人保健施設が介護老人保健施設と名称を変えて雨後の筍のように一気に増えた記憶があります。寝たきりの高齢者をまとめて収容し、質の低い医療や介護を提供し、利益を出していたいわゆる老人病院に取って代わった印象があります。この制度改定以降、医療と介護を切り離す流れが確立したことは間違いありません。国民医療費に介護費用が含まれなくなったため、結果的には医療費も削減されましたが、現在では医療費50兆円・介護費12兆となり、合計金額は増加の一途です。今後は少なくとも地方では医療と介護を再び統合したほうが、質も向上し費用も抑制できるのでないかというのが私の考えです。そのためには、病院と様々な介護施設(介護老人保健施設や特別養護老人ホームなど)が物理的に隣接もしくは同一敷地内にあり、医者が簡単に行き来できることが望ましいと考えます。そのようにすることで、患者や医者の移動する負担は大幅に軽減し、同じ患者を継続して同じ医者が診ることも可能になります。救急搬送などの緊急事態も手間が軽減するので、患者や家族だけでなく、医療側や行政側にも大きな利益があります。

 そのためには中規模の病院と施設が統合し、ある程度の急性期医療から、リハビリを含めて慢性期の医療と介護のための設備と人員を確保しなければならないので、民間では経営面にもスタッフの確保にも多くの困難を伴い、自治体では赤字を出すことには国の支援が必要です。高齢者に対しては、無駄な検査や治療を省き、軽度の高血圧・糖尿病・脂質異常症に対しては、ドラッグストアに看護師と薬剤師を配置して医療機関の負担を軽減することも選択肢です。これには日本医師会の反発は必至で、政治家が国民に説明して官僚が実行できるかは疑問です。徳洲会のキャッチフレーズは、「いつでも、どこでも、誰もが最善の医療を」ですが、国民が公平な医療を受けるためには、「ホドホドの」医療をという方向を目指すのが現実的です。まず、高度成長の恩恵を受けた我々高齢者が、医療への幻想を捨てなければなりません。

掲載日付:2026.07.04

Vol.315 痰の吸引も有害無益なことがある

 「死ぬのは苦しい」という考えには、私は懐疑的です。千人以上の死を看て感じるのは、意識レベルが低下してから死ぬまでの時間は眠っている状態で、普段の眠りが朝には覚めるのと異なり、覚めることがない眠りが死だということです。とすると、意識が完全になくなるまでの間に苦痛がどれくらいあるかが問題になり、その時間が短ければ苦痛は少ないと言えます。対光反射や心電図を確認することのなかった時代は、まさに「息をしている」ことが「生きている」ことでした。ということは、現代では生きている人が死んでいると判断されていたのです。そのため生き返る人もいましたが、そのまま死ぬ人は苦しまずに済みました。

 若者の救命可能な急性疾患や外傷に対しては、あらゆる救命処置を行うのは当然ですが、実はこのようなときには患者自身の脳の機能は低下し、苦痛を感じていないのではないかと私は感じています。それは、救命できてからこのような患者と話をすると、例外なくその時のことを憶えていないからです。忘れているだけかもしれませんが、ずっと思い出せないのであれば何もなかったと同じことではないでしょうか。一方、衰弱して回復が難しい状態になった高齢者は、どのような病気でも、苦痛を最小限にすることを優先し、その上でどのように治療を進めるかを考えるべきです。医学の進歩により死ぬ瞬間を先送りすることで、苦痛を長引かせてしまうことが増えたことも事実です。この時間をいたずらに延ばさず、十分に苦痛を取ることを優先し、かつ苦痛を伴う医療行為を最小限にすれば穏やかな死を迎えることは可能になります。

 私の父はパーキンソン病と認知症が進行し、寝たきりになりましたが、経管栄養はもちろん1本の点滴もしませんでした。それは父の希望ではありませんでしたが、豊かでない生活の中で私を医者にしてくれた父に対して最良のことと私が判断したからです。無駄な栄養補給・過剰な点滴・無意味な酸素吸入と同時に痰の吸引も慎重に行うべきです。肺炎に限らず寝たきりになった高齢者は痰が多くなることがよくあります。それに対しては、細いカテーテルを口や鼻から挿入して吸引するのですが、父に対しては看護師さんに鼻から気管にまで入れてしっかり吸引することは止めてくださいとお願いしていました。それは意識レベルが低下しても、痛みを感じ、むせることがよくあるからです。痰をつまらせて窒息してもよいのかと言われそうですが、気管より細いレベルの気管支が閉塞することはありますが、気管が詰まることは非常に稀です。気管支が詰まるのであれば、血液中の酸素は不足し、二酸化炭素は多くなるので、呼吸状態は悪くなりますが、脳が麻酔にかかった状態になるので、苦痛は感じにくいはずです。むしろこのような状態で酸素吸入を行うほうが、意識レベルがよくなって苦しくなることさえあります。苦痛を与えてまで、痰を一所懸命に取るのは有害無益なこともあるのです。痰が多いときには、口から喉の少し奥までカテーテルを入れて吸引して、痰が溢れ出ないようにすれば十分です。

 痰がゴロゴロしているだけで、痰を取ってくださいという患者さんの家族がいますが、それは、飲み込めない唾液や分泌された粘液が気管や気管支の表面にあるだけで呼吸への害は多くありません。唾液や粘液を減らすためには、吸引するよりも、余分な水分を経管栄養や点滴から入れるのをやめるほうが有効です。私が終末期の患者さんのご家族に、「植物は最後には枯れていきますよね。人間もそのほうが穏やかな最期を迎えられると思いますよ。」という話をよくします。このように無駄な医療をやめることは、技術的には簡単で、苦痛の軽減にもなり、無駄な医療費も軽減できますが、「医療行為は善であり、最期まで続ける」という時代に生きてきた医療従事者と医療を受ける人の考え方を変えなければならないことが最大の問題です。


menu close

スマートフォン用メニュー