Vol.271 認知症治療に革命は起こるか?
8月25日に厚生労働省は、日本のエーザイとアメリカの製薬会社が共同で開発したアルツハイマー病の治療薬であるレカネマブ(日本での商品名はレケンビ)を正式に承認しました。これまでの抗認知症薬とは異なり、患者の神経細胞に蓄積する「アミロイドβ」という異常なたんぱく質に対する抗体で、その物質を減少させて症状の進行を抑えることが期待され、早ければ年内にも使用可能になりそうです。これは注射薬で、副作用と蓄積物質の変化を見ながら、2週間に一度の頻度で注射を続けます。対象は、軽症のアルツハイマー病と軽度認知障害と呼ばれる患者で、アミロイドβが蓄積している証明が必要なため、アミロイドPETという限られた施設でしかできない高額な検査や腰椎穿刺で脳脊髄液を調べることが条件になります。
この薬はアルツハイマー病を治すのではなく、進行を遅らせるもので、しかもその効果は「認知機能の悪化を27%遅らせる」程度です。ということは、症状が悪化しても「効いているからこのくらいで済んでいるのかもしれない」という理屈が通用するので、治療をやめる判断はできません。また、副作用としては、約17%に脳出血があると報告されています。薬価はまだ決まっていませんが、先行使用している米国では一人あたり年間に約2万6500ドル(約400万円)が必要です。対象となる患者は、我が国では数百万人に上ります。対象の絞り込みを行うにも高額な検査が必要で、合計すると年間数兆円が必要になります。つまりこの薬は、治療効果はそれほど高いとは言えず、その効果の判定も難しく、軽症患者に使うほど効果があるので対象を広げる必要があり、しかも対象者を選ぶには高額な検査が必要なるというかなり厄介な薬と言えます。
日本は、「人の命は地球より重い」と発言した首相がいるくらい生命至上主義がまかり通る国です。日本で最も薬価の高い薬と呼ばれた「ゾルゲンスマ」は、難病の脊髄性筋萎縮症の遺伝子治療薬ですが、数年前に約1億6700万円の薬価で承認されましたが、私はこれには賛成です。理由は人工呼吸器管理が必要になる子供が減ることと、この病気が希少疾患であることです。アルツハイマー病の多くは高齢者で、その頻度は認知症の60%程度と言われています。世界情勢が不安定化している中、経済が停滞している我が国で、高齢者の認知症の進行を遅らせることにどれだけのお金をかけることが妥当なのでしょうか。レカネマブが年齢を問わず、長期間使い続けられたら、医療制度が破綻するだけでなく、社会全体に大きな影響を及ぼすでしょう。
新しい技術が生まれると、それを改良したものが次々に生み出されます。現にレカネマブの次には「ドマネマブ」という薬が開発され、すでに承認申請されています。効果はレカネマブより高いようですが、「35%遅らせる」という程度です。27%と35%の差は微妙ですが、薬価はレカネマブより高くなる可能性があります。また、副作用の脳出血は逆に増加し30%を超えます。同様のことは認知症治療に限らず多くの医療分野に見られ、特にがん治療においてはさらに深刻です。医療費の伸びを抑制し、多くの国民の生命と財産を守るためには、優先順位を明確にする必要がありますが、残念ながら、既得権益を守ろうとする勢力と安価で高品質の医療を受けることが当然の権利と考える国民性がある限り、有効性が少ない医療を止めることは、新しい医療を始めるよりも遥かに難しいのです。新薬が革命的な変化を起こす可能性は否定しませんが、革命はよい結果をもたらすとは限りません。効果は乏しいが、医療費が崩壊したという悲劇的結果も想定すべきです。人の命はお金では買えませんが、お金がないと医療が成り立たないことは間違いありません。全体の不幸を減らすためには、この程度の不幸までは受け入れるという覚悟を持たねばなりません。