新庄徳洲会病院

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掲載日付:2011.08.15

Vol.63 「社会に役立つ」基準が引き起こした大惨事

 福島原発事故の報道で、権威と呼ばれる学者ほど「安全だ、心配ない」という傾向であることにお気づきですか。彼らは、権力者に従う学者という意味で「御用学者」と批判的に呼ばれています。その妥当性はともかく、科学の世界で御用学者が力を持つようになったのは1990年頃からです。

 もともと学問の世界には「社会に役立つ」ということはあまり求められなかったために、浮世離れした学者が珍しくありませんでした。そういう人が国立大学にいるのは税金の無駄だと追求され、独立行政法人としての規定が適用されるようになりました。この影響で「社会に役立つ研究をしているか否か」という基準で、研究費が配分されるようになったのです。

 では「社会に役立つ」という基準はどのようにして決められたのでしょうか。指導教官からやれと言われてオワンクラゲの発光のメカニズムを研究し、30年以上経ってノーベル化学賞を受賞した下村先生の例のように、役に立つかどうかなど全く考えなかった研究が、社会に大きく貢献することは珍しくありません。逆に役立つことを目指して挫折したものは、無数にあったはずです。このときは国が進める政策に沿った研究をとりあえず「社会に役立つ」と定義しました。そのため、御用学者の得意な分野で、御用学者の気に入った結果を出すことが、学問の世界で優先されるようになってしまったのです。

 本来、科学は事実に基づくものなので、研究者による主張に差は少ないと思われるかもしれませんが、正反対のことが少なからず起こる背景にはこのようなことがあるのです。極端な立場を取る者の間には議論が成立しないと言われますが、原発問題はその見本です。一方は原発は絶対に安全だから万一のことなど考える必要ないと主張し、他方は現実から目を背け危険性だけを強調してきました。彼らが用いたデータはどちらも自分に都合の良いものだけでした。これが原発問題の最大の不幸は政治問題化していることだと以前私が言った理由です。お互いの主張の認めるべきところは冷静に認め、そこから改善点や妥協点を見出していく方向には進まなかったからこそ、今回の原発事故が大惨事になってしまったのです。したがってその責任は原発推進派だけでなく原発反対派にもあると言えます。もちろん、私のように原発のことには無関心で、ひたすら電力を消費してきた者にも責任はありますが…

院長 笹壁弘嗣
新庄朝日 第675号 平成23年8月15日(月) 掲載


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