新庄徳洲会病院

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掲載日付:2013.06.15

Vol.85 死んでも生きている人

 私の恩師である外科医のK先生は、14年前に51歳の若さで亡くなりました。癌と戦い続けた最期でした。私とは性格も死に対する考え方も正反対といえる人でしたが、それ故か可愛がってもらいました。火葬後、骨を拾いました。そのとき、この人は二度と帰ってこないのだと感じました。

 ところが、その後も仕事をしているとK先生のことをよく思い出します。K先生なら、この患者に手術をするだろうか、どんな術式を選ぶだろうか、院内のトラブルにどう対応するだろうか、などなど考えます。そしてK先生はにっこり笑って「笹壁君、君ね~、…」と話しかけてきてくれます。不肖の弟子である私は、それに反論して従わないことも少なくありません。全部昔のままです。これは、K先生の歳をすっかり私が追い越した今でも同じです。つまり、私にとってはK先生は今でも生きているのと同じなのです。直接会って話ができないだけで、私の中では生き続けているのです。

 生者は死者に対して様々なことをします。葬儀を行い、墓を建て、仏壇を祀り、命日や彼岸やお盆には行事をします。それらは死者のためと考えられていますが、実は残された者のためではないでしょうか。哲学者の内田樹氏は、「葬送儀礼は死者に祟られないために行うもの」と述べ、祟られないためには、死者を遠ざけるのではなく、死者を忘れないようにすることだと続けています。そこにいるように振る舞うことで、死者はこの世から心安らかに立ち去れるということです。

 作家の北方謙三氏は、パリから北京までの車の旅で苦楽を共にしたフランスの友人が、ラリー中の事故で亡くなったという知らせを受けフランスを訪れた際、再会した仲間から、「俺達はお前のことを忘れない、そして死んだアイツのことも忘れない、忘れない限りお前もアイツも生きている」と言われ、フランス人の死生観を知ったと講演で話していました。

 2年前に92歳の父を看取った時、年老いて認知機能が衰え食事もできなくなった彼に私は経管栄養も点滴も一切しませんでした。少し死期を早めたかもしれませんが、今でも悔いはありません。私が彼の事を忘れずに生きている事が父が生きていた証であり、心臓が動いているかどうかは問題ではなかったのです。

 死者を忘れない限り死者は生き続ける。死んでもコミュニケーションは継続するのです。そう考えると死を受け入れやすくなると思います。
院長 笹壁弘嗣
新庄朝日 第719号 平成25年6月15日(土) 掲載


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