新庄徳洲会病院

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掲載日付:2023.02.07

Vol.258 卒業式のマスク

 2月2日の衆院予算委員会で、今春の卒業式でのマスクの取り扱いを巡って、永岡桂子文部科学相が、家庭の判断で外しての参加が可能と答弁しましたが、その後、「現時点では決めていない。速やかに検討する」と軌道修正したという報道が話題になっています。未だにこのようなことが話題になるのは情けないと思いますが、メディアの論調はマスクを外すことは時期尚早、家庭の判断に任せることは無責任などと批判的です。

 遅きに失したとはいえ、5月8日にようやく2類相当から5類への引き下げが実施されようとしていますが、そもそもマスク着用は感染症法上の分類とは無関係で、わが国ではこれまで一度も義務化されていません。政府のマスクに対する最新の公式見解は、屋外では原則不要、屋内では「距離が確保でき、会話をほとんど行わない場合をのぞき着用をお願いする」というものです。つまり距離が確保できて会話をほとんどしない場合は不要であるということです。卒業式では大声を出すことはなく、距離を保つことも可能です。それを踏まえて、最終的には学校や教育委員会が判断し、保護者と本人で決定すればよいのではないでしょうか。

 壇上で話す人は飛沫を出すので、そのときはマスクをすればよいかもしれませんが、国権の最高機関である国会では、登壇者が発言するときだけマスクを外すという意味不明の行動をとっています。野次を飛ばす議員の飛沫が感染力が最強なのでしょうか。校歌や卒業式の歌を歌うときも、NHKの学校コンクールを真似る必要はなく、着けたい人だけ着ければよいのです。いまだに衆議院ではアクリル板も使用しているのは、呆れてものが言えません。マスク着用は個々の判断に任せるという当初の文科相の発言は間違っていませんが、その後の責任回避発言は問題です。政府がなすべきことは、2類相当の解除に先立って、マスク着用の自由化を明言した上で実行し、アクリル板を追放することです。

 今春の卒業生は、中学でも高校でも入学以来ずっとマスクを始めとする理不尽とも言える厳しい規制を受けてきました。その長期的な悪影響は、短期的な利益を遥かに超えるものだと危惧しています。マスクをしたい人はして、したくない人はしないで問題ありません。そんな卒業式には出たくないという人は、生徒であれ保護者であれ教師であれ、出なければよいだけです。卒業式を休んでも卒業できないことはないはずです。

 今、日本の人口あたりの陽性者の数は世界のトップです。もはや一人ひとりが生活習慣に気をつけて、新型コロナウイルスとは共存するしか道はないのです。東アジア諸国の感染対策は旧態依然の傾向が強いのですが、韓国では学校でのマスク着用は自由化されたようです。政府や自治体や学校管理者などの責任ある立場の人が、より上の立場の人の指導を望むのは、結局のところ自分で責任を取りたくないだけだと思えます。マスク無しで感染が広がっても、マスク着用義務化で騒ぎが起きても、少なくとも自分には責任はないと言いたいのではないでしょうか。保護者も同じです。子供の責任は一義的には本人と親が負うべきものです。その行動が正しいかどうかは自ら調べた上で決断し責任をとらなければなりません。私は学校にも自治体にも国にも命令はしてほしくありません。責任回避社会はいずれ独裁国の奴隷にされるような気がします。私は子どもたちの入学式にも卒業式にも一度も出たことのない不届きな親ですが、もうすぐ卒業式を迎える子供には、「咳やくしゃみが出ない状況で、花粉症もないのなら、マスクはほとんど意味はないが、つけたければつければよい。自分ならつけないけど。」と伝えるつもりです。


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