新庄徳洲会病院

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掲載日付:2020.06.16

Vol.189 ソーシャル・ディスタンスを考える

 高校卒業後、地元京都での2年間の浪人中、鴨川の堤防を自転車で予備校に通っていました。そこはカップルが等間隔に並んで座っていることで有名で、いつかは自分もと思っていましたが、地元の大学に合格できなかった私には、その機会は訪れませんでした。当時、カップル同士の距離は1.5mまでと言われていましたが、実際に京都精華大学の学生が卒業論文のテーマにして調べています。それによると、半数以上が1〜2mの距離でした。最近はやりのソーシャル・ディスタンス(社会距離)と同じですね。

 ヒトの対人距離は、1966年にアメリカの文化人類学者のエドワード・T・ホールによって、近い方から密接距離・近接距離・社会距離・公共距離の4つに分類されました。社会距離は、「相手に手は届きづらいが、容易に会話ができる空間」とされ、1.2〜3.0mです。この距離を保つと新型コロナウイルスの飛沫感染が防げることから、一躍有名になりました。

 しかし、社会距離を保ってヒトが生きていくことは簡単ではありません。赤ちゃんは親などの庇護なしでは生きていけません。ヒトは数百年前に森から出て、捕食者である肉食獣と向き合うために多産で対抗しました。ヒトは毎年でも妊娠できますが、ゴリラやチンパンジーは子供が大人になるまでの数年間はメスが発情しません。ヒトは授乳期を過ぎてからも大人と同じものを食べるようになるまでに長い離乳食の期間があり、しかも脳が大きくなったせいで、大人になるのに10年以上の時間がかかります。つまり、たくさんの子供を長期に育てる必要が生じました。そのため、ヒトは家族より大きな共同体を作り、集団で多くの子供を育てるようになりました。共同体では、子どもは遊びながら成長し、密接距離で触れあうことで安心し、外界へも挑戦し成長してゆきます。子供に社会距離を長期間強いるのは、困難であるだけでなく、有害なのです。

 ヒトは介護が必要な高齢者も見捨てない道を選択しました。高齢者が介護者と社会距離を保つことは不可能です。たとえ介護を要さない自立した高齢者でも、そして普通の大人でも、社会距離をとって生き続けることは不可能です。私は毎日多くの高齢者と接しています。入院患者の回診ではできるだけ手で身体を触れるように心がけています。外来に定期通院する患者にはハグすることもあります。これは新米医者だった頃のI先生の教えが染み付いているからです。平成26年6月のコラムでも紹介したように、「触れる効果」は医療以外の現場でも証明されています。

 密接できるのは家族や恋人が主な対象でしょうが、現代社会ではそのような人に恵まれない人が増えているような気がします。歌の文句にもあるように、「悲しみに出会うたび、あの人を思い出す。こんなときそばにいて、肩を抱いてほしいと。」という気分になったことのない人はいないのではないでしょうか。この歌は中村雅俊の「ふれあい」というタイトルです。文字通り、触れあいたいというのは根源的な欲求であり、それがホモサピエンスの共同体を形成した原動力でもあるように思います。ヒトは多くのヒトと触れ合う集団でしか生きられない生き物です。社会距離をとれないときには、どうしたら感染のリスクを最小限にできるか、その答えはありません。接触機会が増えれば、必ず感染は増えます。被害を最小限にしながら、個別の状況でどのような方策が取れるかを試行錯誤するしかないと思います。感染者かどうかを簡単かつ正確に判別する方法がない以上、すべての人を感染者とみなすのが感染防御上は正しいのですが、その状況にヒトは耐えられない生き物であることも事実なのです。


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