新庄徳洲会病院

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掲載日付:2025.07.08

Vol.297 オオスズメバチに学ぶ

 単身赴任になって、新幹線で移動する時間は読書に当てることが多くなりました。それまでは、医療関係や時事問題のエッセイやコラムを集めたものが多く、小説を読むことは新聞の連載小説くらいでしたが、往復6時間以上を使ってある程度長い小説を読むことが増えました。先日は百田尚樹著「風の中のマリア」を読みました。氏の本は10冊以上は読みましたが、大ベストセラーの「永遠の0」に匹敵する作品でした。百田氏の作品は、ストーリーが優れているのはもちろんですが、卓越した文章力により難解なことが理解しやすいという特徴があります。

 主人公のマリアは、オオスズメバチのワーカー(働きバチ)で最強の戦士です。昆虫の世界を擬人化し、彼女の短いながらも波乱万丈の一生を描くことで、「生きる」ということを考えさせてくれます。擬人化した物語は、動物が人間的に描かれすぎる傾向があり、あまり好きではありませんでしたが、本作品は自然の厳しさの中で、昆虫がこんな感情を持っているかもしれないと思わせます。本書の巻末にある養老孟司氏の解説の冒頭に、「極めて学術的に描かれていながら、同時に冒険小説のように力強く感動的なドラマ」と評されている通りの作品です。スズメバチのような社会性の昆虫の社会構造、性の決定システム、どのような昆虫を捕食するのか、オオスズメバチとセイヨウミツバチとニホンミツバチの関係、スズメバチの社会が続くための女王バチ殺しの実態、新たな女王バチが誕生する過程、等などがわかりやすく描かれていながら感動的に展開します。百田氏は自らの学歴を、最底辺の高校を卒業し、同志社大学法学部を中退したと語っていますが、この作品のために読んだ本と専門家への取材は膨大なものと思われます。彼の知識の吸収は、砂漠が一気に水を吸収するだけでなく、緑地に変えてしまう力を感じます。その点からだけでも、彼の集中力は天才的と言えます。

 物語は秋に生まれた女王バチが交尾した後、春の訪れとともに帝国を作り上げていく過程で、数多くの働きバチ(すべてメス)が生まれ、妹を増やし最終的に多くの女王バチ候補を育てる様子が綴られています。マリアは来る日も来る日も、昆虫を殺し肉団子にして巣に持ち帰って幼虫である妹たちに与え、妹が出す蜜を栄養源として受け取ります。彼女が、姉や他の昆虫から様々のことを学び成長していく1ヶ月間が物語の中心で、オスのハチとのつかの間の出会いがあり、メスでありながら恋をして子をなすこともない現実に向き合い、これが終盤の布石にもなります。マリアは「運命に従う勇者」として生涯を終えますが、未来への希望も描かれています。

 人間は脳が発達したおかげで巨大な社会を作り上げて発展させましたが、同時に不都合なものは排除し、その手段は時代とともに大規模かつ苛烈になりました。戦争や過剰な自然破壊はその典型です。人間界では悪役として描かれることが多いスズメバチは、必要以上の狩りはしません。我々は弱者を救済することも、排除することも、自己の利益のためにうまく利用することもあります。物理法則に反するリサイクルや再生可能エネルギー、自然の摂理に反する「性自認」という概念などをもてあそんでいる人はこの作品を読んでみたらどうでしょう。新たな女王バチを生み出すために生を受けながら、そのほとんどが願いを叶えることなく死んでいくスズメバチの世界の厳しさを、本能が低下してしまった現代人は知ったほうがよいと思います。本能を失った生物に未来があるとは思えません。私は、質素な家庭でしたが、公的な教育だけで医者になり、多くの先輩と後輩の力を借りて臨床医としてやってきました。人類への貢献や立身出世とは無縁で、私が死んでも足跡など何も残らないでしょうが、それでよいと思います。マリアにはとても敵いませんが、彼女のように死んでいけたらと心から思うことができる作品でした。

掲載日付:2025.06.18

Vol.296 謝罪・訂正しないことが流行る社会

 6月8日に大阪キー局である読売テレビで放送された「そこまで言って委員会NP」には、新型コロナウイルス感染症対策分科会の会長だった尾身茂氏が出演していました。東京キー局のテレビでは扱えない話題でも、地方局は取り上げることがあるので、インターネットでTVerを使って視聴しました(7月6日まで視聴可能)。氏の発言と、それに対する反応が注目されました。

 コロナワクチンに対しては、「残念ながら感染予防効果はあまりなかった」と氏は述べていました。あまりなかったということは少しはあったようにも取れますが、科学者としては、「感染予防効果は統計学的に有意な差を証明できなかった」とするべきで、あるかないかと問われれば「あるとは言えない」というのが妥当です。感染予防効果がないなら、若者などの重症化率や死亡率が極端に低い人がワクチンを接種する意味はなくなりますが、実際には「思いやりワクチン」と言って高齢者や基礎疾患がある人を守るために若者も積極的に接種すべきだと喧伝されていました。尾身氏は、自分は初期から感染予防効果がないのだから接種は任意であると発言していたとのことですが、彼は少なくとも第8波の前までは若者も積極的に接種するように発言しており、番組内でも疑問が呈されましたが、尾身氏はそれは自分の考えではなく政府の見解を説明したというものでした。科学者が自分の考えと異なることを発表するのは如何なものでしょう。そもそも辞退すれば済むだけです。実は、政府広報からもワクチン推奨動画は出されていましたが、今では削除されています。また、同番組で橋下徹氏は、メディアがワクチン接種を煽りすぎたと主張していましたが、彼は若者には旅行や酒席に参加する資格として強制的にも射たせるべきだと、同時期にテレビ番組で堂々と主張していました。インターネット番組では有名なインフルエンサーが、接種しないのは人殺しだとさえ発言しています。

 ワクチンの救済認定による死亡事例は1000件を超え、過去すべてのワクチンの151例を大幅に上回りましたが、ほとんどすべてが「情報不足等によりワクチンと死亡との因果関係が評価できないもの」に分類されていることについて尾身氏は、我が国ではこれを検証するシステムがないので難しいとコメントしていました。しかし彼はそのシステムを作ることに尽力したとは思えません。確かにそれは彼の仕事には含まれていないでしょうが、彼ほどの影響力がある人が今後のためにも検証システムを整備するよう発言さえしないのは理解できません。

 当時ワクチン接種を勧めていた政治家や専門家や有名人でその発言を撤回したり訂正した人はいないように思います。まして不見識を恥じて謝罪した人は皆無でしょう。ところが、コロナ騒動で有名になった専門家の中には、出世を遂げた医師は片手では足りません。彼らの多くはダンマリを決め込むか屁理屈をこねるかという態度です。尾身氏が理事長を務める病院機構が多額の補助金を得ていながら、病床を十分に活用せず、さらにそれを資産運用に回していたことが番組で話題にされなかったのは事前に打ち合わされていたのでしょう。この番組の構成は不十分ではあるものの、彼がこのような検証番組に出演したことは評価します。私は彼の発言内容には疑問を持ちますが、意外なことに世間の彼への評価は好意的なものが多く、彼の著書「1100日間の葛藤 新型コロナ・パンデミック、専門家たちの記録」もアマゾンでは4.2と高評価です。私のような無名の医者の意見はさておき、専門家ほど自己の言動が誤っていたときや考えが変わったときにそれを公表するのをためらう傾向があるように思います。「過ちて改めざる、是を過ちと謂う」は、孔子の言葉で、過ちを犯してもそれを改めないことこそが本当の過ちであるという意味です。謝罪や訂正をすることは決して恥ではなく、むしろ日本人の美徳だったはずです。

掲載日付:2025.05.28

Vol.295 黄緑と薄紫の季節

 先月、研修医時代の仲間だったN君から著書が送られてきました。彼は、40年以上前に別々の大学を卒業して、同じ病院で医者としての道を歩き始めた10人の中の一人です。ある政令指定都市の精神科医として小さな子どもから思春期までの若者に向き合って来た軌跡を、定年を機にまとめた彼の三十数年の集大成と言える本です。N君は優秀なだけでなく、私とは対照的な明るい性格で、周りから愛されていましたが、その後も存分にその強みを活かして活躍していたことが文章から伝わってきました。長年にわたって多くの若者とともに紡いできた心のカルテを読んでいると、彼の真摯で明るい人柄が伝わってきます。趣味も多彩で、文学や芸術の造詣も深く、スポーツも続けており、若者と話が合うように若者文化にも親しんでいます。一緒に過ごしたのは2年間でしたが、その後も時々連絡があり、2年前に山形での研究会の際にわざわざ新庄まで訪ねてきてくれて以来、メールのやりとりをするようになりました。

 私は、10年以上にわたって1日130km以上の長距離を車で通勤していましたが、2年前から単身赴任生活になり、月に2〜3度の新幹線移動をするようになりました。以前は季節を肌で感じていましたが、今は病院とアパートの直径3km以上離れたところへ行くことがほとんどなくなり、季節はおろかその日の天気にも鈍感になってしまいました。5月半ばに新緑の中を進む東北・山形新幹線からは、田起こし前から田植えが終わった水田の風景が続きます。特に山形県内の山中では、雪に覆われた景色に変わって常緑樹の深緑と対照的な「萌えいづる新緑」の黄緑が車窓の間近に続きます。その中に見え隠れする枝垂れるヤマフジやベル型のキリの薄紫色は、ことさら美しく思わず見とれてしまいます。私の出身高の校名に「紫」が入っていたので、部活のユニフォームも薄紫色であったからか大好きな色です。

 N君の本は、地元紙に連載されたコラムが中心なため一編一編は比較的短く、老眼の私にも読みやすい大きな字で書かれているので新幹線内で読むには最適です。ふと外を見た時に、前述の景色が広がり、「山笑う」という春の季語がピッタリだなと思ったのは、N君の文章に、万葉集から俵万智までの詩歌がたびたび引用されていたからです。春の野の歌でも読めればよいのにと頭をめぐらしてみましたが、全く反応しません。中学高校の同級生が、新聞などに掲載された自作の俳句や短歌をメールで送ってくれるのですが、17文字や31文字のような短さで何かを伝えることができる才能には感心します。私は人前で話すことや文章を書くことが多い方ですが、短い時間や文章で伝える技術は本当に難しいと思います。職員には短く要領よく話すようにと言いながら、自分は会議での話が長いと不評を買っています。また、カルテは文学ではないので、読み手を感動させる必要はなく、わかりやすくだけでなく、誤解されないように、ただ一通りの解釈しかできないように書くようにと強調していますが、これも自分では実践できてはいません。

 私のコラムを読んだ知人の医師に、「君の文章は怒りに満ちている」と指摘されたことがあります。確かに、医療やその他の社会制度の矛盾や問題点を取り上げて、少し上から目線で理屈っぽく怒りを込めて書いていることは認めざるを得ません。もともと地元のフリーペーパーに依頼されて始めたものですが、それが終了後も継続しているのは、自分が気になったことを自分の頭に刻み込み整理するためでした。職員へのメッセージや数少ない友人へ生存確認でもありましたが、予想以上に読まれていることを考えると、怒りを抑えてN君のような文章も書けるようになりたいと思いました。N君、少しは君に近づけたでしょうか。自分で読み返すと、やはり私には「優しさ」よりも「怒り」が似合う気がします。


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