新庄徳洲会病院

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掲載日付:2011.06.13

Vol.60 生き残った者は、何を考えどのように行動すべきか

寒さと停電の中で見た職場の仲間の思いと成長する姿

 今回の大震災では、新庄は震度5弱で、直後の問題は停電でした。この冬は記録的な豪雪で寒さも厳しく、3月11日の最高気温は0.9℃でした。まずは寒さ対策です。病院中の毛布と布団を集め、備蓄していた使い捨てカイロとあわせて患者さんに提供しました。近隣の介護施設や付属保育園に石油ストーブを配り、職員寮から石油ファンヒーターを特に寒い部署へ運び込んで非常電源につなぎました。

 次は水です。当院は地下水をくみ上げて使用しています。しばらくは断水しないはずでしたが、夜になると上の病棟から順に水が出なくなりました。屋上の水槽の残水量が予想より少なかったのです。しかも、くみ上げ用ポンプには自家発電機が接続できないとのこと。とりあえず、大浴場の浴槽からバケツリレーでトイレ用の水を各病棟に配りました。飲料水も貯水槽からポリタンクに移して運び込むことを考えましたが、翌早朝に新たに発電機が確保でき、透析も無事に行うことができました。

 停電のため病棟は暗くナースコールも使えないため、特別に人員を増やしました。幸い多数の協力が得られ、大過なく朝を迎えることができました。食事は前日の夕食から非常食です。エレベーターが使えないので、職員が手分けして配膳しました。看護師が緊急の勤務態勢を組めたのは、付属保育園が夜間も含めて子どもさんを受け入れてくれる臨時対応をしてくれたことも大きな要因でした。深夜のバケツリレーや早朝の配膳といい、こういう職域を越えた協力体制は本当に素晴らしいですね。

 オーダリングシステムも使えないため、以前の伝票で運用し、不自由ながらも外来も継続できました。12日の昼すぎに電気が復旧したときは、そのありがたさをしみじみ感じました。

 停電の後は、物流の問題です。医療消耗品は、資材課の原田英樹副主任が中心になってグループ病院からの支援物資を関連施設と分配しました。紙オムツは2~3日で底を突くところでしたが、大垣徳洲会病院の小森紀男事務局長のおかげで山形県内の病院と施設に行き渡りました。

 ガソリンや軽油などの燃料不足は、約1カ月間続きました。片道30kmの道のりを通勤する職員が珍しくない当院では、ガソリン不足は人員不足を意味します。地震直後から地域医療部の木戸喜信主任が奔走してくれたおかげで、訪問看護や通所リハビリテーションも休まず継続できただけでなく、困っている職員にも少しずつ配給することができました。

 この経験が、4月7日深夜に発生した震度5弱の余震で発揮されました。私が40分後に病院に到着すると、すでに総務課の山内美喜主任を中心に災害対策本部が出来上がっており、約60人もの職員が動き出していました。私はこの光景を、一生忘れることはないでしょう。今回も停電になりましたが、非常電源がきちんと機能し、断水もなく、エレベーターも1基は作動させることができました。給食は非常電源をうまく活用し、通常の朝食を作りました。午前8時に電気も復旧し、混乱なく朝の業務を始めることができました。

自己完結するために重要な後方支援

 当院の成田政彦事務長は震災直後に仙台徳洲会病院に向けて出発し、TMATの撤収まで断続的に関わりました。その他、医師・看護師・コメディカル・事務・救急救命士の計13人が加わりました。一方病院では、被災者の受け入れを行っていました。仙台病院で手術ができなくなった患者さんや自衛隊に救助された方に続き、透析の継続や褥瘡の処置のため搬送された方もおられ、計14人の患者さんとご家族4人も受け入れました。

 7年前の新潟県中越地震のとき、現地で見た自衛隊の素晴らしさが印象に残っています。わが国で唯一の自己完結型の組織です。志願者の多くは最前線での仕事を希望しますが、隊員が十分活躍するためには手厚い後方支援が必須です。旧日本軍が後方支援をなおざりにしたため多くの兵士が見殺しにされたことは、作家の司馬遼太郎も指摘しています。その意味でも、成田事務長が南三陸町のTMAT宿舎に簡易トイレを搬入したと聞いたときは、とてもうれしく思いました。 徳洲会グループが、こうした活動をどこまでできるかは別として、後方支援を充実させる意義は強調してもしすぎることはないと思います。

「津波てんでんこ」に学ぶ「個」の重要性

 三陸地方には古くから「津波てんでんこ」という言葉があるそうです。「てんでんこ」は、てんでんばらばらという意味で、「津波のときは親子であっても構うな、一人ひとりがばらばらになっても早く高台へ行け」との教えです。非常時は個人の判断と責任で一刻も早く逃げることが大事であり、「家族や周りの者を助けられなかった者を責めてはならない」という事後の心構えも含んでいるそうです。

 震災後、やたらに「一つになろう日本」と叫ばれていますが、へそ曲がりの私は「お前とだけは一つになりたくない」と言いたくなります。「津波てんでんこ」を子どもに教えていた釜石市では、学校にいた小中学生約2900人が全員無事だったそうです。「みんなで一緒に」、「一糸乱れず」、「整然と」行動しなかったことが助かった要因かもしれません。生き残った人の多くは、「なぜ自分だけ助かったのか」、「あのときああしていれば……」、「なぜ、こうしてしまったのか」と自分を責めているはずです。私も含めて誰もが死ぬ側に回ったかもしれないということを忘れてはなりません。そして助かったのはただの偶然で、理由などないのかもしれませんが、その意味を問い続けて生き続けることでしか亡くなった人を弔うことはできない、そんな気がします。一つになるのも大事ですが、一人になって考え、一人で行動することも大事なのです。皆で「てんでんこ」で頑張りましょう。

院長 笹壁弘嗣
徳洲新聞 №778 直言 平成23年6月13日(月) 掲載

掲載日付:2011.06.15

Vol.61 少量の放射線被曝で癌は増えるのか ―安全な被爆とは?―

 原爆被爆者を調べた結果、年間100mSv(ミリシーベルト)以上では被曝量に比例して癌死は増えるが、これ以下では影響がないと言われてきました。政府はこの見解を現在も採用していますが、 国際放射線防護委員会はこの考え方を既に否定し、100mSv以下でも癌による死亡は増えるとしています。実際、15カ国の原発従事者40万人を追跡した調査は、10~50mSvでも比例関係があると結論しています。

 その一方で、少量の被爆は健康によいと言う専門家もいます。チェルノブイリ事故後に増えたのは小児の甲状腺癌だけで、今回の事故ではその1/10程度しか放射性物質が放出されていないので心配ないという論調もあります。しかし、ソ連が崩壊し綿密な調査が行われていないことは注意すべきです。それだけに、今回の被爆の長期的な影響は世界中が注目しているはずです。

 私は無用な被爆は極力避けるべきと考えます。 特に影響が大きい小児への被爆は最小限に抑える義務が大人にはあるはずです。ところが、震災後に文部科学省が各学校長に宛てた文書には、年間100mSvまでは健康に被害はないと書かれており、その後福島県の小中学校の屋外活動を制限する限界放射線量は、年間1mSvから20mSv(病院の放射線技師の基準と同等)に引き上げられました。

 どの癌が被曝によるものかを区別する方法はありません。日本は2人に1人が癌になり、3人に1人は癌で死ぬ社会です。 高齢者は癌になっても、今まで長生きしたのだから仕方がないと考えた方がお得です。 実際、 チェルノブイリでの最大の健康被害は、癌ではなく、ヤケになった人たちが酒を飲み過ぎて身体をこわしたことです。 幸い50歳を過ぎると放射線による発癌性は劇的に低下します。むしろ大人や高齢者は子供や妊婦を守る役目を果たすべきなのです。

 原発従事者への調査結果に基づいて計算すると、年間100mSvの被爆によって癌で死ぬ人が約一割増えることになります。これを人口200万人の福島県にあてはめると、癌死が一年に600人増えるということで、小さな影響とは言えません。問題は、より慎重な姿勢であるべき社会集団を管理する立場の人が、異常に楽観的であるということです。彼らは自分の子供や孫を原発周辺に移住させられるのでしょうか。結局、我々は自ら学び自ら考えて行動するしかないのですね。

院長 笹壁弘嗣
新庄朝日 第671号 平成23年6月15日(水) 掲載

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